UEFAチャンピオンズリーグの歴史

UEFAチャンピオンズリーグの歴史

50年代

第1回大会にはソ連とイングランドからクラブが参加せず(チェルシーはFAから脅迫されている)、以下の16クラブによって大会が開催された。

Sporting CP(Portugal) ,FK Partizan Belgrade(Yougoslavie) ,MTK-VM Budapest(Hongrie) ,RSC Anderlechtois(Belgique) ,Servette FC(Suisse) ,Real Madrid CF(Espagne) ,SC Rot-Weiß Essen(Allemagne) ,Hibernian FC(Écosse) ,Djurgårdens IF(Suède) ,Gwardia Warszawa(Pologne) ,Århus GF(Danemark) ,Stade de Reims(France) ,SK Rapid Wien(Autriche) ,PSV Eindhoven(Hollande) ,AC Milan(Italie) ,1. FC Saarbrücken (Sarreland)

決勝に勝ち進んだのはスペインのレアル・マドリードとフランスのスタッド・ド・ランス。1956年6月13日、パリ、パルク・デ・プランスでおこなわれた決勝戦には38,239人もの観客が集まり、4-3でレアル・マドリードが優勝した。中心となったのはアルゼンチンからやってきたアルフレッド・ディステファノであった。決勝でも彼は2点を決めた。

翌56-57シーズン、レアル・マドリードはランスの主力であったレイモン・コパを引き抜いた。第2回大会にはイングランドからマンチェスター・ユナイテッドがFAの反対を押し切り参加。監督のマット・バスビーには世界制覇の野望があった。準決勝で2戦合計で18万人(サンチャゴ・ベルナベウでは10万人以上)の観客を集め壮絶な戦いを繰り広げ勝利し、サンチャゴ・ベルナベウで行われた決勝戦で124,000人もの観客の中、フィオレンティーナを下して連覇を果たす。57-58シーズンはACミランと対決。スキアフィーノの左足による美しいゴールが決まったが、その後ディステファノが同点ゴールを決め、ディステファノが延長でゴールを決めて3-2と制して3連覇を達成。このシーズンの58年2月6日ミュンヘンの悲劇が起こり、ダンカン・エドワーズらが亡くなる。

1958年6月1日、レアル・マドリードにハンガリー人、フェレンツ・プスカシュが加入。レアル・マドリードはフェイマス・ファイブという素晴らしい攻撃の選手を揃えた布陣で決勝まで進み、ドイツ、ネッカーシュタディオンにおける決勝戦まで勝ち進む。対峙したのはスタッド・ド・ランス。コパを引き抜かれた後に加入したジュスト・フォンテーヌの活躍によって勝ち進んできたが、またしてもレアル・マドリードに破れ、レアル・マドリードは4連覇を達成した。またこのシーズンに初めて同国対決が準決勝でレアル・マドリードアトレチコ・マドリードが行われ2-1、0-1というスコアとなり、サラゴサでの決定戦でレアル・マドリードが2-1と下している。

59-60シーズン、レアル・マドリードは5連覇の偉業を成し遂げる。決勝のスタジアム、グラスゴー、ハンプデンパークには127,641人もの観客が集まり、レアル・マドリードはアイントラハト・フランクフルト相手にプスカシュが4得点、ディステファノが3得点を決め7-3で勝利を収めた。またこの大会の準決勝でスペインのレアル・マドリードFCバルセロナが対戦。リーグでは2連覇を納めたバルセロナだったが、レアル・マドリード相手に2戦共に1-3で破れている。

60年代

レアル・マドリード帝国をの野望を打ち砕いたのはFCバルセロナ。2回戦、サンチャゴ・ベルナベウで2-2とした後、カンプ・ノウにて2-1と下した。バルセロナは決勝まで勝ち進んだが、優勝したのはハンガリー人、ベラ・グッドマン率いるベンフィカ・リスボン。キャプテンで得点王となったルイ・アグアスのゴール、"将軍"マリオ・コルーニャのボレーシュートが決勝点となりベルン、バンクドルフスタジアムにおける決勝戦を3-2で制し優勝した。翌61-62シーズンに、ベンフィカにモザンビークから18歳の新星、エウゼビオが加入。コルーニャ、トーレス、アグアスという攻撃陣が際立ち、アムステルダム、オリンピックスタジアムでの決勝ではレアル・マドリードと対峙。レアルはプスカシュがハットトリックを決めるもののエウゼビオが勝ち越しのペナルティーキックを決め5-3で2連覇を果たした。

62-63シーズン、3連覇を狙ったベンフィカの野望を阻んだのはACミラン。キャプテン、チェーザレ・マルディーニ率いる堅い守備、ジョバンニ・トラパットーニが中盤の底で守備を固め、前線にジョゼ・アルタフィーニ、ジャンニ・リヴェラらの有能なアタッカーを揃え、ロンドン、ウェンブリーにおいて優勝を果たし、イタリアに初めてビッグイヤーをもたらした。

63-64シーズン優勝を果たすのが、インテル・ミラノ。監督のエレニオ・エレラはカテナチオという戦術を採用。ピッチ、ファケッティ、バルグニッヒ、グァルネリの4バックを中心に鍵をかけたような堅い守備からカウンター攻撃をする戦術が優勝まで導いたのはスペイン人のルイス・スアレスがジャイール、マッツォーラらFW人を巧妙なゲームメイクをしたからだった。

翌64-65シーズン、インテルは準決勝でイングランド、リヴァプールFCをファケッティの逆転ゴールで1-3,3-0で下して決勝に進出。決勝の舞台はインテルのホーム、スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ。相手はベンフィカ。コルーニャ、シモエスに互いに9得点の長身トーレスと黒豹エウゼビオを擁するベンフィカ。89,000人の大観衆の中ジャイールのゴールによって1-0と制し2連覇を達成した。

65-66シーズン、優勝を果たしたのはレアル・マドリード。シーズン途中にプスカシュも去りフェイマス・ファイブはいなくなったが、ミゲル・ムニョス監督の下、準決勝でインテルを下し、ヘイゼルでの決勝戦ではパルチザン・ベオグラード相手に1点のビハインドの場面で、イグナシオ・ソコからのパスを受けたアマンシオがバソヴィッチを交わしてゴールを決め追いつき、フランシスコ・セレーナの30mのボレーシュートが決まり逆転で優勝を決めた。

66-67シーズン、前年のW杯の失態を払拭するかのようにインテルは勝ち進んだ。外国人選手は排斥令によりおらずファケッティら率いるカテナチオとダニエル・マッツォーラらを中心とした攻撃で勝ち進んだ。ポルトガル、エスタディオ・ナシオナルでの決勝で対戦したのはスコットランドのセルティック。マッツォーラのPKで先制するも、トミー・ゲメルの強烈なシュートで同点。スティービー・シャルマーズのゴールでビッグイヤーは初めて大陸から放れることになった。

67-68シーズンの優勝は、マット・バスビーの悲願が叶う形となった。1958年にミュンヘンで主力選手の多くを失った彼の悲願は、キャプテンのボビー・チャールトン、ジョージ・ベスト、デニス・ローを中心にチームは形成。準決勝でレアル・マドリードとの壮絶な試合を制し、ウェンブリーにおけるベンフィカとの決勝戦では、ローは手術のために出場はならなかったが、延長戦に入るとジョージ・ベストの伝説的ゴールで勝ち越し4-1で勝利納めた。

68-69シーズン、マンチェスター・ユナイテッドの連覇を阻んだのはネレオ・ロッコ率いるACミラン。準決勝でホームで2-0、アウェーで0-1というスコアで交わし決勝に進出。サンチャゴ・ベルナベウでの決勝、観客31,000人のなかピエロ・プラーティがハットトリックを達成。リヌス・ミケルス監督に率いられた、若きヨハン・クライフの所属するアヤックスは破れた。

69-70シーズン、アヤックスよりも先にオランダにビッグイヤーをもたらしたのはオーストリア人監督エルンスト・ハッペル率いるフェイエノールト。ヴィレム・ファン・ハネハムを中心に長身のオーベ・シンドバルが控え、スウィーパーにイスラエルを揃えた戦術で、クラスゴー・セルティックを破って優勝を果たした。

70年代

70-71シーズン、同点となった場合について再試合をすることで試合数が増えることを懸念し、アウェーゴールを2倍にするというルールが採用される。このルールを見事に活かしたのはフェレンツ・プスカシュ率いるパナシナイコス。準々決勝のエヴァートン戦および準決勝パルチザン・ベオグラード戦をアウェーゴールの差で勝ち抜いた。決勝はパルチザンとアヤックス。アヤックスがウェンブリーで行われた試合でも二人のヨハン、クライフとニースケンスを中心としたトータルフットボールを展開。2-0で下して欧州王者に輝いた。

71-72シーズン、このシーズンの決勝は前年王者アヤックスとイタリアのインテル。アヤックスはミケルスがオランダ代表監督に就任したために、ステファン・コバチが就任したが、トータルフットボールを継承、無難に勝ち上がってきた。対するインテルは2回戦のボルシア・メンヒェングラートバッハ戦で大敗をしながら天候トラブルによりUEFAが無効試合を宣告。ミラノに戻った試合を勝利で納め、再試合となったベルリンでの対決を引き分けにしたことでドイツ王者を下し、準決勝ではセルティック相手にPK戦の末勝ち進んだ。盤石の布陣のアヤックスはロッテルダム、デ・カイプでの決勝、クライフの2得点により勝利。連覇を果たす。

72-73シーズン、アヤックスは準々決勝でドイツ王者バイエルン・ミュンヘンを、準決勝でレアル・マドリードを下し、決勝に進出。ベオグラード、レッドスターで行われた決勝戦でロベルト・ベッテガ、ファビオ・カペッロら擁するイタリア王者ユヴェントスを下し3連覇を達成。レアル・マドリードに次ぐビッグイヤーを永久保持するクラブとなった。

73-74シーズン、アヤックスはクライフがFCバルセロナへ移籍、チームは弱体化し2回戦で姿を消した。優勝を果たしたのはウド・ラテック率いるバイエルン・ミュンヘン。皇帝フランツ・ベッケンバウアーを中心に中盤にパウル・ブライトナーが立ち、2トップに爆撃機ゲルト・ミュラー、ウリ・ヘーネスらと西ドイツは欧州選手権を制したドイツ代表が6人揃っていた。2回戦で東ドイツのディナモ・ドレスデンとの壮絶な戦いを制し、決勝まで勝ち進む。ヘイゼルでのアトレチコ・マドリードとの決勝戦、延長戦において先制したのはアトレチコ。ルイス・アラゴネスのゴールが114分に決まる。しかし、ロスタイムにゲオルグ・シュヴァルツェンベルクのミドルシュートが決まり1-1となり試合が終了。再試合となる。再試合ではハビエル・イルレタが前試合の退場により出場できず、バイエルンがミュラー、ヘーネスが2ゴールずつ挙げ4-0と大差で勝利し、この勢いのまま西ドイツは本国開催のW杯を制した。

74-75シーズン、ブライトナーが抜け、監督はデットマール・クラマーとなったが、ベッケンバウアーを中心としたチームはミュラーが3季連続となる得点王となる活躍、準々決勝以降、ゼップ・マイヤーが失点を許さず、パルク・デ・プランスにおけるリーズ・ユナイテッドとの決勝戦も2-0で勝利し2連覇を果たした。

75-76シーズン、ドイツ王者としてではなく、前回王者として出場したバイエルン・ミュンヘンは苦戦しながらも3季連続の決勝に進んだ。ハンプデンパークでの決勝で、フランス王者サンテ・ティエンヌを1-0で下し3連覇を達成。3クラブ目となるビッグイヤー永久保持を許された。

76-77シーズン、バイエルン・ミュンヘンを破ったのはバレリー・ロバノフスキー率いるディナモ・キエフ。前年にも欧州スーパーカップでバイエルンを下したオレグ・ブロヒンらを擁したスピード溢れるサッカーを展開した。ローマ、オリンピコで行われた決勝はドイツ王者ボルシア・メンヒェングラートバッハと、前年にuefa杯を制したリヴァプールFC。1973年のuefa杯決勝と同一の対決となった。テリー・マクダーモットがスティーヴ・ハイウェイのクロスに合わせてゴールをすると、ボルシアはアラン・シモンセンの左足の素晴らしいシュートで同点に追いついたが、トミー・スミスが勝ち越しゴールを決め、3-1でボブ・ペイズリー率いるリヴァプールがビッグイヤーに輝き、ウド・ラテックの2チーム目のビッグイヤーはならなかった。

77-78シーズン、準決勝でリヴァプール対ボルシアの再選が繰り広げられる。ケヴィン・キーガンが抜けたリヴァプールであったが、初戦を落とし迎えたホームでの試合を3-0で制して決勝に進出。ウェンブリーでの決勝戦の相手はエルンスト・ハッペル率いるクラブ・ブルージュ。キーガンの後釜として入ったスコットランド代表、ケニー・ダルグリッシュのループシュートが決まり1-0で連覇を達成した。

78-79シーズン、1回戦でリヴァプールを倒したのは同じイングランドのノッティンガム・フォレスト。1975年に就任したブライアン・クラフに率いられ、77-78シーズンに昇格後優勝を果たしたクラブが組織力を活かし大巨人を倒し、挙げ句ミュンヘンでの決勝でスウェーデンのマルメを途中加入したトレバー・フランシスのヘディングのゴールで1-0と破り、優勝を果たしてしまった。

79-80シーズン、再び決勝に戻ってきたノッティンガムの相手は、ドイツ王者ハンブルガーSV。1978年にギュンター・ネッツァーがゼネラル・マネージャーに就任し、ブランコ・ゼベチ監督下、ケヴィン・キーガン、フェリックス・マガト、マンフレート・カルツらを擁した陣容で望んだが、ジョン・ロバートソンのゴールでノッティンガムが連覇を果たした。

80年代

80-81シーズン、準決勝ではリヴァプール、バイエルン・ミュンヘンレアル・マドリードインテル・ミラノという顔合わせになった。リヴァプールはスコアレスドロー後、ミュンヘンでの第2戦、レイ・ケネディのゴールで先制し、失点をルンメニゲの1点に抑えたことで決勝に進出する。対するはレアル・マドリード互いに2-0と1-0とホームで勝ち合ったことでレアルが勝ち抜いた。パルク・デ・プランスにおける決勝は81分にアラン・ケネディがゴールを決め、ボブ・ペイズリー監督として初の3度目の優勝を飾った。

81-82シーズン、準々決勝でリヴァプールはCSKAソフィアに延長戦の末に破れた。デ・カイプで行われた決勝はバイエルン・ミュンヘンが優勢と見られていた。しかし優勝をしたのはアストン・ヴィラ。アストン・ヴィラは前年71年ぶりにイングランド王者となったが、経営陣との対立でロン・ソーンダースが辞任、後任はトニー・バートンが務めていた。10分にGKジミー・リマーが膝を痛めてナイジェル・スピンクに交代するとスピンクは好セーブを連発。後半にピーター・ウィズがゴールを決めて優勝を果たした。

82-83シーズン、前年にW杯を制してメンバーが主力を務め、ミシェル・プラティニ、ズビクニェフ・ボニェクらが在籍したユヴェントスが決勝に進出。アテネ、オリンピアコでの決勝は、プラティニをヴォルフガング・ロルフが完璧に抑え、フェリックス・マガトのゴールでエルンスト・ハッペル率いる西ドイツ、ハンブルガーSVが予想を覆す優勝を果たした。

83-84シーズン、82年のW杯で採用されたPK戦による決勝が行われた。ローマ、オリンピコにてASローマはGKブルース・グロベラーの体を大きく動かした動きに惑わされ、ブルーノ・コンティ、フランチェスコ・グラツィアーニがPKを失敗。イアン・ラッシュら4人が決めたジョー・ファガン率いるリヴァプールに破れ、初のビッグイヤーを取り逃し、リヴァプールは4度目の戴冠となった。

84-85シーズン、サッカー史上最悪の惨事が起こる。ベルギー、ブリュッセル、ヘイゼルスタジアムの試合前、酒を大量に飲んで暴徒と化したリヴァプールサポーターがユヴェントス側に乱入。Zセクターの煉瓦の壁が崩れ死者39人、負傷者300人以上を出してしまった。そんな中UEFA会長、フランク・ジョルジュは試合開催を決断。3時間以上経って開催された試合はプラティニのPKによるゴールでユヴェントスが勝利。しかし見出しには結果よりも悲劇が一面を飾った。これ以後イングランドのクラブには欧州の大会で無期限の出場停止とされた。(イングランド勢の出場は92-93シーズンのリーズ・ユナイテッドからとなる。)これにより本命となるイングランド勢のいないCCは混沌となった。

85-86シーズン、躍進を見せたのはスペインのFCバルセロナ。準々決勝でユヴェントスを破り、PK戦の末IFKイェーテボリを破って進出した決勝戦。スペイン、セビージャ、サンチェス・ブスファンで行われた決勝戦でチームの主力、ベルント・シュスターがテリー・ヴェナブルスにベンチで下げられると彼は試合が終わる前に自宅に帰ってしまい、チームはヘルムート・ドゥカダムの4連続セーブによって、ステアウア・ブカレストに破れ悲願のタイトルを取ることはならなかった。

86-87シーズン、決勝に進出したのはバイエルン・ミュンヘンとFCポルト。ウィーン、プラターでの決勝戦でポルトのアルジェリア人、ラバー・マジェールの伝説のヒールキックで同点に追いつくと3分後にはマジェールのアシストからジュアリがゴールを決め逆転でポルトが初優勝を飾った。ウド・ラテック率いるバイエルン・ミュンヘンは準決勝でレアル・マドリードとの接戦を制しながらも優勝はならなかった。

87-88シーズン、優勝を果たしたのはオランダのフース・ヒディンク率いるPSVアイントホーフェン。準決勝でレアル・マドリードをアウェーゴール差で破り、ドイツ、ネッカーシュタディオンにおけるベンフィカとの決勝戦決勝戦、延長戦でも決着が付かずPK戦に突入、5人目まで全員成功すると6人目のシュートをGKハンス・ファン・ブロイケレンがセーブをし初優勝を果たし、オランダリーグ、カップと共に主力に欠場の無かったチームは三冠を達成することとなった。

88-89シーズン、ACミランが久々に登場。アリゴ・サッキ監督下、フランコ・バレージを中心としたディフェンスラインによるゾーンプレス体現、ルート・フリット、マルコ・ファン・バステン、フランク・ライカールトの"オランダトリオ"は輝きを見せ、チームは欧州の中でも圧倒的な力で、準決勝でレアル・マドリードをサン・シーロで5-0と圧勝。バルセロナ、カンプ・ノウで行われた決勝戦でもステアウア・ブカレスト相手に4-0の強さで優勝を果たした。戦術に加え、ミランのターンオーバーという制度も世界的に注目されることになった。

89-90シーズン、準決勝でバイエルン・ミュンヘンとの激闘を制したミランは決勝に再び進出。前半終了直前、オーバーラップしたライカールトがセンタリングを見事にとラップして抜け出し決めたゴールを守りきり、スヴェン・ゴラン・エリクソン率いるベンフィカを破って連覇を果たした。

90年代

90-91シーズン、ミランは準々決勝第2戦、ヴェロドロームでの試合でクリス・ワドルに先制点を決められ、89分にヴェロドロームで停電が発生、ミランはこれを理由に試合から撤退する判断を下す。これに対してuefaは3-0でのマルセイユの勝利およびuefa主催の大会からの1年間出場停止を決めた。本命とされたマルセイユは決勝戦まで進む、ところがイタリア、バーリ、サン・ニコラでの決勝戦でユーゴスラヴィア、レッドスター・ベオグラード相手にPK戦でステバン・ストヤノビッチの好セーブの前にマヌエル・アモロスが止められ、1人目ロベルト・プロシネツキから5人目ダルコ・パンチェフまで全員決めたレッドスターが優勝を果たした。

91-92シーズン、UEFAは2回戦と突破した8チームを4チームずつのグループに分け準決勝ラウンドをリーグ戦形式にする変更をした。準決勝を勝ち抜いたのはイタリアのサンプドリアとスペインのFCバルセロナ。ロンドン、ウェンブリーで行われた決勝は延長戦までもつれ、延長後半にロナルト・クーマンの強烈なフリーキックがジャンルカ・パリュウカの手を破り決まり、ついにバルサ、悲願のタイトルがもたらされた。監督はヨハン・クライフだった。

92-93シーズン、UEFAは名称を「UEFA Champions League」と改称し、放映権、多くのスポンサー契約を取り付けることとなった。この大会の決勝に進んだのはフランスのオランピック・マルセイユとイタリアのACミラン。ミュンヘン、オリンピアシュタディオンでの試合、ミラン有利と言われた戦前の予想に反して、コーナーキックからバジール・ボリのゴールが決まり1-0でマルセイユが優勝。ベルナール・タピの集めたスター軍団が夢を叶えたと思われた。しかし、この後、タピがフランスリーグで買収をしたという事実が発覚し、マルセイユは優勝を剥奪された。

93-94シーズン、グループリーグの各1位と2位を準決勝で対戦させ、勝者同士が決勝で戦うように変更した。アテネ、オリンピスキスタジアムで行われた決勝に進んだのはイタリアのACミランとスペインのFCバルセロナ。頂上決戦と言われた試合は、ファビオ・カペッロ監督下、組織的で速いプレスを擁するミランが圧倒。ダニエレ・マッサーロの2ゴール、デヤン・サビチェビッチの美しいループシュート、マルセル・デサイーのゴールと当時ドリームチームと謳われたバルサに4-0で圧倒的な差をつけてミランが再び王座に返り咲いた。

94-95シーズン、予備選を終えると4チームによるリーグを4組を作り、上位2チームが準々決勝に突破。以降をトーナメント方式とするよう変更された。これによってより多くの王者同士の戦いが増えるようになった。その中でパリ・サンジェルマンがジョージ・ウェアの活躍によってグループリーグを無敗で突破し、準々決勝でFCバルセロナを下した。またアヤックスはGKエドウィン・ファン・デル・サールの活躍で6試合無失点をし、ミランを抑え首位で通過した。ミランはサン・シーロでファンの暴動によりSVザルツブルクのGKが負傷する事件を起こし、減点2を課せられた。準決勝まで無失点で進んだアヤックスはバイエルン・ミュンヘンとの第2戦でマルセウ・ヴィテチェクにゴールを許したが試合を5-2で制し、決勝に進出。相手はパリ・サンジェルマンに2戦とも完封勝利したACミランだった。ウィーン、プラターで行われた試合では元ミラン、ライカールトのアシストから19歳パトリック・クライファートがゴールを決め、ライカールトの引退試合に華を添えた。

95-96シーズン、決勝に進出したのはマルチェロ・リッピ率いるイタリア王者、ユヴェントスとアヤックス。ローマ、オリンピコで行われた決勝で前半にファブリツィオ・ラヴァネッリが角度のないところからゴールを決め先制するも、ヤリ・リトマネンがフリーキックから見事な反応を見せ同点ゴールを決め、決着は延長でも着かずPK戦に持ち込まれた。アヤックスの4人目が失敗した後、ユーヴェは4人目ウラディミール・ユーゴビッチが落ち着いて決め、ジャンルカ・ヴィアリ、ディディエ・デシャンなど堅い布陣を擁するユヴェントスがビッグイヤーを制覇した。

96-97シーズン、ジネディーヌ・ジダン、クリスティアン・ヴィエリらが加入したユヴェントスはアヤックスを準決勝で下し、ミュンヘン、オリンピアでの決勝にやってきた。相手はドイツのボルシア・ドルトムント。ゲームはアンドレアス・メラーのコーナキーックからフリードリッヒ・リードレがゴールを決め先制、リードレは追加点も決める。後半になってユヴェントスはエース、アレッサンドロ・デルピエロを投入、デルピエロはアレン・ボクシッチの右からの折り返しをヒールキックでゴールを決め反撃の狼煙を上げるが、ドルトムント、交代で入ったラルス・リッケンの美しいミドルシュートが決まり、優勝はメラー、ユルゲン・コーラー、パウロ・ソウザなど元ユヴェントスの選手が主力を務めるドルトムントと皮肉な結果で幕を閉じた。

97-98シーズン、このシーズンよりUEFAに加盟する48カ国すべてに出場権を与え、加えて各国優勝クラブだけでなくそれに準じる成績のチームの参加が認めらたため、前年優勝国以外からも2クラブ以上の参加が可能となり、当時ランキング1位のドイツからは3チーム参加した。これによりチャンピオンズリーグ本戦は4チームによるリーグを6組作り、各組1位および2位の勝ち点上位2チームが準々決勝進出と変更された。勝ち点が12で並びながらユヴェントスはランキングによって救われ、準々決勝に進むこととなった。また準々決勝では初のドイツ勢対決が行われ、延長戦の末ボルシア・ドルトムントバイエルン・ミュンヘンを下した。準決勝ではユヴェントスはデルピエロのFKとPKだけによるハットトリックでASモナコとの第1戦を勝利し優位を保って総得点で決勝に進出した。決勝はドルトムントを破ったレアル・マドリード。アムステルダムアレナでの決勝戦はロベルト・カルロスのシュートのこぼれ球をプレドラグ・ミヤトビッチがいち早く反応して押し込み、フェルナンド・イエロが終始デルピエロを完璧に抑え、レアル・マドリードが33年ぶりの戴冠を得た。

98-99シーズン、決勝の会場はバルセロナのカンプ・ノウであった。ここを本拠地とするFCバルセロナバイエルン・ミュンヘンおよびマンチェスター・ユナイテッドと同組となり、リーグで敗退した。決勝は、再びバイエルンとマンチェスターが顔を合わせたリーグでは2引き分けとなった試合は、マリオ・バスラーのグランウダーのフリーキックにペーター・シュマイケルは反応できずバイエルンが先制する。逃げ切るかと思われた後半ロスタイムに、デヴィッド・ベッカムのコーナーキックから、テディ・シェリンガム、オレ・グンナー・スールシャールのゴールが決まり、奇跡的な展開で逆転優勝。マンチェスター・ユナイテッドは国内リーグ、カップを含むトレブルを達成した。

99-00シーズン、E14を中心にスーパーリーグ構想が発表される。これを阻止すべくUEFAはランキングに合わせて出場枠を増やし、3度の予選を経て、チャンピオンズリーグ、1次リーグ、2次リーグを本戦にし、準々決勝以降をトーナメント戦とする仕組みに変更し、非常に豪華な大会へと変化させた。このシーズンに躍進をしたのはスペイン勢だった、準決勝にスペインから3チーム残り、準決勝でレアル・マドリードバイエルン・ミュンヘンとの壮絶な試合を制し、決勝に進出。エクトル・ラウル・クーペル率いるバレンシアは高速カウンターを武器にFCバルセロナを破り決勝に進出、決勝は初の同国対決となった。パリ、スタッド・ド・フランスでの試合はフェルナンド・モリエンテスげ先制点を決めて試合を優位に進めると、後半30分、コーナーキックのこぼれ球をラウール・ゴンサレスが自陣で拾うとドリブルを開始、最後は元レアルのサンチャゴ・カニサレスをも抜き去って3点目を決めて、20世紀最後の王者となった。

00年代

00-01シーズン、フロレンティーノ・ペレスが会長に就任、ルイス・フィーゴが加入したレアル・マドリードを止めたのはバイエルン・ミュンヘン。準決勝で再び顔を合わせた両者は壮絶な戦いの末、バイエルンがアウェイ、ホームともに勝利し決勝に進出、ジュゼッペ・メアッツァでの決勝の相手は2年連続で決勝に進出したバレンシア。ガイスカ・メンディエタ、シュテファン・エッフェンベルクのPKによるゴールで1-1のまま、延長に入っても決着が着かずPK戦による決着となる。互いに5人でも決まらず、バレンシア7人目、マウリシオ・ペジェグリーノのシュートをGKオリヴァー・カーンが止め、バイエルンが25季ぶりの優勝。クーペルはまたしても決勝で敗退となった。

01-02シーズン、バイエルン・ミュンヘンレアル・マドリードは準々決勝で再び顔を合わせた。互いにホームで勝利したものの、合計得点でレアルが雪辱を果たし、準決勝で国内因縁のライバル、FCバルセロナユーロ・クラシコを演じた。敵地カンプ・ノウで勝利したレアルが決勝に進出。相手は、マンチェスター・ユナイテッド、リヴァプールFC相手に攻撃的な戦術を見せ、アウェーゴールルールで下したバイヤー・レヴァークーゼン。グラスゴー、ハンプデンパークにおける決勝は、ラウル・ゴンサレス、ルッシオの得点で1-1となった前半ロスタイム、ジネディーヌ・ジダンの素晴らしいボレーシュートによって勝ち越し、レヴァークーゼンの後半の怒濤の攻めを防ぎきったレアル・マドリードが優勝。レヴァークーゼンの国内リーグ優勝経験ないチームによるビッグイヤーはならなかった。

02-03シーズン、前年のW杯における失態を払拭するかのように、イタリア勢が健闘を見せた。スペイン勢は軒並みイタリア勢の堅い守備からカウンターに破れる試合があった。決勝に進出したのはFCバルセロナレアル・マドリードをトーナメントで下したユヴェントスと準決勝、インテル・ミラノとのユーロ・ダービーをアウェーゴールルールで勝ち抜いたACミラン。オールド・トラフォードでの決勝は皮肉なことにPKによる決着の予想が大勢を占め、実際そうなった。結果はミランの5人目、アンドリー・シェフチェンコが決め、ミランがビッグイヤーを栄冠に輝き、リッピは4度決勝に進みながら3度破れる監督となってしまった。

03-04シーズン、選手から不満が言われていた2次リーグが取り払われ、16強からトーナメントが行われるように変更された。優勝したのはジョゼ・モウリーニョ率いるFCポルト。グループリーグでレアル・マドリードに完敗しながらも決勝トーナメント1回戦でマンチェスター・ユナイテッドを誤審と劇的な同点ゴールで破り、その後も前年度uefa杯王者の強さを見せ決勝に進み、ゲルゼンキルヒェン、アレーナ・アウフ・シャルケで行われた決勝もASモナコを3-0で下し優勝を決めたが、モウリーニョは既にチェルシーとの契約を交わし、メダルを即座に外して退席した。

04-05シーズン、優勝を果たしたのはリヴァプールFC。グループリーグをスティーブン・ジェラードの劇的ゴールでギリギリ勝ち抜き、決勝トーナメントでは20年ぶりのユヴェントスとの邂逅を経て、チェルシーをも堅守で破り、迎えたトルコ、イスタンブール、アタチュルク・オリンピックスタジアムにおけるACミランとの決勝では、パオロ・マルディーニの決勝最速ゴール、エルナン・クレスポの2ゴールによる3点差を6分間で追いつき、そのまま延長戦にでも決着が着かず、PK戦となりイェルジィ・デュデクのセーブの前にミラン5人目、アンドリー・シェフチェンコが止められ奇跡的なリヴァプールの優勝となり、監督のラファエル・ベニテスには、前年バレンシアCFでuefa杯に次ぐ欧州大会優勝となった。

05-06シーズン、50周年の記念大会はパリ、スタッド・ド・フランスで開催され、決勝は無敗で進出したチーム同士の戦いとなった。前半に10試合連続無失点記録を作っていたイェンス・レーマンが退場となってしまったアーセナルがセットプレーからソル・キャンベルのヘディングシュートにより先制するが、後半に次々と攻撃的な駒を投入したFCバルセロナがヘンリク・ラーションのアシストからサミュエル・エトー、ジュリアーノ・ベレッチがゴールを決めて持ち前の攻撃的なサッカーでチェルシー、ミラン等に打ち勝ったバルサのスタイルが世界を制したこととなり、パリの地にイムノが流れた。

06-07シーズン、アテネで向かえた決勝戦は2年前と同じACミラン対リバプールのカードとなった。前年のカルチョポリに巻き込まれ、出場すら危ぶまれたミランは予備選からの出場。得点王に輝いたカカを中心としたクリスマスツリーシステムは円熟を極め、決勝では2年前にケガで出場すらならなかったフィリッポ・インザーギの2得点でリバプールに完勝。悪夢のような2年前の出来事を払拭する価値ある優勝で、キャプテンのパオロ・マルディーニは5連覇をしたレアル・マドリードの選手に並ぶ、6度目の優勝という偉業を成し遂げた。