ロナート・クーマン

ロナート・クーマン

Ronald Koeman(英語読みすればロナルド・クーマン)

1963年3月21日 ザーンダム生まれ

オランダ人サッカー選手、監督 182cm・81kg

兄はエルヴィン・クーマン(Erwin Koeman 1961年生まれ)、2006年3月よりフェイエノールト監督

概略

選手時代

アヤックスから1986年にPSVに移籍し、フース・ヒディンク監督下、リベロとして右足からの巧みなフィード、パス、ミドルシュートを武器とする攻撃的なリベロとして地位を確立、エールディビジ3連覇、88-89シーズンにはチャンピオンズカップ制覇を経験した。(87-88シーズンのクーマンが記録した得点は21という凄まじいモノである)

89年にヨハン・クライフのFCバルセロナに引き抜かれリーガ・エスパニョーラ4連覇の黄金時代の一員となり、攻撃的な選手を数多く有するドリームチームを下から支える存在として君臨した。1992年のチャンピオンズリーグ決勝、対サンプドリア戦では延長に自ら強烈なフリーキックを決め、93-94シーズンにはリーガ・エスパニョーラにおいてデポルティーボ・ラ・コルーニャが自滅によって、薄氷ながら優勝、4連覇を記録。チャンピオンズリーグではクーマンは8得点を記録、得点王となって決勝戦に進んだものの、アテネでの決勝ではファビオ・カペッロ率いるACミランに0-4の完敗。

1995年にバルセロナからフェイエノールトへ移籍、その後1997年に現役を引退した。ディフェンダーながら通算356ゴールという偉大な記録を残した。

オランダ代表としては1983年4月27日スウェーデン戦にてデビュー。1988年欧州選手権のメンバーとして優勝を経験。オランダ代表としては1990年大会は兄とともに代表に名を連ね、4試合フル出場、対西ドイツ戦で一矢報いるゴールを決めている。ルート・フリット、マルコ・ファンバステンなどが抜けた後はキャプテンとして代表を統率、1994年W杯欧州予選B組、対イングランド戦で、2発のフリーキックでイングランドを沈め、本大会ベスト8という好成績に導いた。

監督時代

引退後、PSV欧州制覇当時の監督でもあったフース・ヒディンク(当時オランダ代表監督)のアシスタントを経験、その後、ルイス・ファン・ハール(オランダ代表、FCバルセロナ)のアシスタントも経験。初の監督としての在任は2000年のSBVフィテッセ。uefa杯においてインテル・ミラノと互角(アウェーゴール規定により敗退)の結果を残した。2001年にコ・アドリアーンセの後任としてアヤックスの監督に就任。

01-02シーズンにミド・ホッサムやズラタン・イブラヒモビッチ、スティーブン・ピーナールら優秀な若手の才能を開花させリーグ戦と国内カップ戦の二冠、翌02-03シーズンにはさらにウェウズレイ・スナイデル、アンディー・ファン・デル・メイデ等の台頭によりチャンピオンズリーグのACミランに惜しくも敗れたが近年の最高順位であるベスト8の成績を残した。

しかし、その後は03-04シーズンにリーグ優勝したもののチャンピオンズリーグでグループリーグでクラブ・ブルージュに敗れグループリーグ最下位となり、uefa杯出場もならず、04-05シーズン、上位のPSV、AZに突き放され、チャンピオンズリーグではグループリーグ3位でuefa杯に回ったが、AJオセールに破れ「今回の敗退を乗り越えるための精神力や活力を与えることができない。チームのパフォーマンスを再び向上させることも不可能だ」とのコメントを残し、2005年2月に監督を辞任した。

20056月8日、かつてチャンピオンズカップ決勝で下した相手、ベンフィカ・リスボンの監督に就任。グループリーグ最終節に於いて、ケガ人が相次ぎ5人ものレギュラークラスの選手が欠場したにもかかわらず、素晴らしい組織戦術、攻撃的姿勢によりマンチェスター・ユナイテッドを下しベンフィカを11年ぶりの決勝トーナメント進出に導き、決勝トーナメントではホーム、アウェーにおいてリヴァプールFCを圧倒して2戦ともに勝利、バルセロナへの凱旋となった準々決勝では忍耐強く守ってから速攻を狙うスタイルで挑むも、決定的な場面で点を奪うことが出来ず、ホームでの1stレグはスコアレスドローに抑えることができたものの、2ndレグで2失点を喫し敗退した。リーグではポルト、スポルティングに放された3位、スポルティングには2敗するという若干不本意な成績となったが欧州戦の結果は上々である。

しかし、家庭の事情を考慮して1年で退団を決意。2006年5月7日、退団と同時にPSVアイントホーフェンの新監督になることを発表、フース・ヒディンクの後を引き継ぎどれだけの結果を残すことができるのか、兄弟対決を含めて楽しみである。

個人評

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