ラファエル・ベニテス

ラファエル・ベニテス

Rafael Benítez Maudes 愛称はRafa スペイン人サッカープレイヤー、監督

1960年4月16日 マドリード生まれ

概略

監督以前

少年時代にレアル・マドリードのユースチームに所属。その後3部および2部BのAD Parla、Linares CFで数回試合に出ただけで、無名選手のまま選手生活を終えている。

ということで彼はマドリードの大学でフィットネストレーナーとしての学位を持っていたので、フィットネストレーナーとしての指導者のキャリアを始めることとなる。

その後レアル・マドリードのユースチームであるカスティージャで見習いコーチの職に就く。(当時のユースでコーチしていたのがビセンテ・デル・ボスケ

カスティーリャが2部降格後はU-19のコーチとしてキャリアを積むこととなる。

1991年に、当時レアル・マドリード監督ラドミール・アンティッチの好意によりイタリア合宿に参加。其処で見たモノはアリゴ・サッキのプレッシングサッカーであった。戦術家である彼の根底にある方法論はこれだそうである。

監督時代

1995年、レアル・マドリードの職を辞し(一説にはその為にビセンテ・デル・ボスケとは犬猿の仲だそうで)て、バジャドリードの監督に就任。23試合指揮をしたところで解任。チームは降格した。その後オサスナの監督になるも、9試合で解任という憂き目にあう。

1997-98シーズンにエクストレマドゥーラの監督に就任しチームを昇格させた。

しかし、「もう一度誰かについて、違う戦術やスタイルを吸収し、見識や考え方を深めなければならない」と思い、一年間休暇をし、様々な監督を訪ね歩くことをする。

イタリアへ行き、ユヴェントスのマルチェロ・リッピ、ACミランのファビオ・カペッロ、フィオレンティーナのクラウディオ・ラニエリに会い、戦術に加えフィジカルトレーニング、食事療法について教わった後、ついでイングランドへと渡る。サー・アレックス・ファーガソン、スティーブ・マクラーレンに会い、トップチームからユースチームまでをどのように運営しているのかを知り、ついでジョージ・グラハムのスピードと緻密さを両立させたアプローチには啓発されたという。

このような彼の経験から「4-2-3-1のフォーメーションを強いて、イタリアのチームのようにプレスをかけ、イングランドのように中盤をダイナミックに展開し、そこから一気にカウンターを狙うという方法」を確立した。

2000-01シーズン、テネリフェの監督に就任すると、見事に昇格させ、ついで01-02シーズンには名門バレンシアの監督に就任。第13節まで無敗、失点27の堅い守備力でリーガ・エスパニョーラ制覇を果たす。このシーズン、併行して戦ったuefa杯ではエクトル・ラウル・クーペルのインテル・ミラノに延長戦の末破れている。

02-03シーズン、チャンピオンズリーグとの併行でターンオーバーを敷き戦い、激戦といわれたグループリーグ2次リーグでは最終節アーセナル戦を勝利し、決勝トーナメントに進出する。そこでまたしてもクーペルのインテルと対戦。アウェーゴール戦の末破れると「インテルのサッカーはつまらない。全てをダメにする」と見事な捨て科白を吐いて敗退した。チームはリーガでも得点力不足を露呈。勝ちきれないチームは最後にはセルタ・デ・ビーゴに抜かれチャンピオンズリーグ圏外の5位に終わってしまった。

03-04シーズン、ヨン・カリューを放出の上、目立った攻撃の選手を獲得しないなどフロントとの確執も目立ってきた中、チームは相も変わらず堅守の上、ミスタの活躍もあって71得点と大爆発。リーガ・エスパニョーラを独走で優勝した。加えて併行して戦ったuefa杯も制し二冠を達成した。

04-05シーズン、フロントとの対立によりついにチームを離れることを決断。長年不振にあえぐイングランド、リヴァプールの監督に就任。リヴァプールへ来て驚いたのは攻撃がなっていないことだったらしい。マイケル・オーウェン放出を計算に入れた上、ジブリル・シセ、ミラン・バロシュの2トップを本戦に考え、シーズンに臨んだが、色々とケガ人が続出。プレミアリーグでは首位を行くチェルシーには突き放された中で、チャンピオンズリーグを堅守によって勝ち進み、ついには優勝を果たし、ボブ・ペイズリー、ジョゼ・モウリーニョに次ぐuefa杯、ビッグイヤーを連続で制した監督となった。

個人評

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