ミヒャエル・バラック

ミヒャエル・バラック

Michael Ballack ドイツ人サッカープレイヤー

1976年9月26日 ゲルリッツ(旧東ドイツ、ザクセン州)生まれ 189cm・80kg

所属クラブ

1983-86 BSGモートーア・フリッツ・ヘッカート・カール・マルックス・シュタット

1986-90 FCカール・マルックス・シュタット

1995-97 ケムニッツァーFC

1997-99 1.FCカイザースラウテルン

1999-02 バイヤー・レヴァークーゼン

2002- バイエルン・ミュンヘン

概略

7歳からサッカーを始め、ユース年代から能力は注目され、ケムニッツァーFCにてプロ選手としてのキャリアを開始する。

97-98シーズン、当時2部から1部に復帰したばかりのオットー・レーハーゲル率いる名門FCカイザースラウテルンに移籍。ブンデスリーガデビューを飾り、このシーズン16試合出場し、クラブの復帰初年度のマイスターシャーレにスーパーサブとして貢献している。この当時のカイザースの中心選手は翌シーズン30試合に出場、4得点の活躍をする。

99-00シーズン、レーハーゲルとの不和からバイヤー・レヴァークーゼンに480万ユーロで移籍する。1年目から活躍したバラックだったが、最終節ウンターハヒング戦にオウンゴールをしてしまい、優勝を逃してしまう。3シーズン目の01-02シーズンには、イルディレイ・バスチュルク、カルステン・ラメロウ、ゼ・ロベルト、ベルント・シュナイダーらと共に中盤を形成し、変則的なシステムを構成、高い身長を活かした空中戦、巧みな足下の技術からボランチからオフェンシブハーフのポジションをこなす中心選手としてリーグでは得点ランキング2位となる17得点をたたき出し、ドイツ年間最優秀選手に輝いた。しかしながらチャンピオンズリーグ、ブンデスリーガ、ドイツカップを全て準優勝という、またも悲劇の主人公となってしまう。チャンピオンズリーグ決勝の時点では、バラックはゼ・ロベルトと共に翌シーズンからのバイエルン・ミュンヘン移籍が決まっていた。

W杯後、1,290万ユーロで移籍したバイエルン・ミュンヘンでは、このシーズンで抜けたシュテファン・エッフェンベルクの後継者として大きく期待される。エッフェ本人も後継者として認めていた。クラブではセンターハーフとして守備的な役割を求められることもあり序盤は動きに悩み、チャンピオンズリーグ1次リーグでクラブが1勝もできない不調の元凶になる。シーズン途中から持ち直し、最終的にはリーグで10得点を記録。リーガでは圧倒的大差で優勝し、ドイツカップと共に2冠を達成した。

03-04シーズンから、ロイ・マカーイの加入により、中盤で動くスペースが増え、自由な動きと、高い攻撃での能力が可能になったが、セバスチャン・ダイスラーととも大きな印象を残す活躍は出来ず、チームもリーグ2位に終わってしまった。

04-05シーズン、豪華な中盤の中、ターンオーバーで出ない試合もあったが主力として活躍、高い得点能力を見せ13得点を決める活躍を見せ、リーガおよびカップの2冠を達成した。

しかしながら、大きな期待とは裏腹に、スター選手として目立った活躍を見せず、ペレから「2002年から成長していない選手」との烙印を押されている。2006年母国開催のW杯で活躍が為されるのか期待される。


代表としては1999年4月28日のスコットランド戦でデビュー。2000年の欧州選手権では途中出場からの2試合に終わる。2002年W杯ではレヴァークーゼンで準優勝3冠となった勢いのまま、金メダルを獲得せんとドイツ代表の主力として活躍。準決勝まで全試合フル出場をしたものの、準決勝で警告を出され、累積警告により決勝戦には出場できなかった。準決勝で彼がヘディングシュートを決めたのはその4分後である。バラックの抜けたドイツは攻撃の核を失いブラジルに破れた。

2004年欧州選手権では、オフェンシブハーフとして大きく期待されるが、ラトビア戦で大事なシュートを外し引き分けを演じ、チェコ戦で素晴らしいボレーシュートを決めたものの、チームは追いつかれ敗戦、グループリーグ敗退となってしまう。

欧州選手権以後、ルディ・フェラーに替わって就任したユルゲン・クリンスマン監督にキャプテン指名され、2005年にキャプテンとして挑んだ公式戦であるコンフェデレーションズカップでは4試合に出場、PKを3本決め、3位決定戦のメキシコ戦では延長戦に右足から素晴らしいフリーキックを決めた。

2006年、自国開催によるW杯において背番号は13が輝くことが期待される。

個人評

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