デビッド・ベッカム

デビッド・ベッカム

David Robert Joseph Beckham デビッド・ロバート・ジョセフ・ベッカム

(Davidはデービッド、デビット、ディビッド、デヴィッド、デーヴィッド、デヴィド、ダヴィド等どれが良いのか悩むので慣れた表記で。各人は好きなものを選ぶように)

(アメリカのテレビ番組における紹介でベックハムと発音されたらしい)

イングランド人サッカープレイヤー、もしくはスター。妻はスパイス・ガールズ、ポッシュ・スパイスことヴィクトリア・アダムス。

1975年5月2日、レイトンストーン、ロンドン、ウォルトサム・フォレスト地区

所属クラブ

1991-1994 マンチェスター・ユナイテッド(イングランド)

1994-1995 プレストン・ノースエンド(イングランド)

1995-2003 マンチェスター・ユナイテッド

2003- レアル・マドリード(スペイン)

概略

幼少の頃よりマンUに憧れ、父親に「チームはいいからブライアン・ロブソンの動きを見ていろ」と言われて観戦する時代を過ごす。そして11歳の時にマンチェスター・ユナイテッド、ボビー・チャールトンによりサッカースクールに参加する機会を得た。その後一度トットナム・ホットスパーのユースに加入した後、14歳の誕生日の日にユナイテッドに加入。正式なトレイニー契約は16歳である。

1992年、ポール・スコールズ、ガリー・ネビル、ニッキー・バットらと共にFAユース杯を優勝。決勝のクリスタル・パレス戦ではゴールも決めた。その活躍から、1992年9月にリーグカップ、ブライトン戦でトップデビューを果たした。

1993年1月23日に当時監督のアレックス・ファーガソンの要請によりトップ契約を果たした。

「フィジカル、ポテンシャルを上げる」という名目で2部のプレストン・ノースエンドへ4試合のレンタル移籍。プレミアデビューは4月2日のリーズ・ユナイテッド戦である。ちなみにこのシーズンの出場は4試合。

95-96シーズン、ユナイテッドに復帰すると若返りを図る名目で、右サイドの名手、アンドレイ・カンチェルスキスが放出されたため、右サイドのレギュラーポジションを獲得。33試合に出場し、プレミアリーグおよびFA杯のダブル獲得の大きな原動力となった。

96-97シーズン、EURO96で活躍したチェコ代表カレル・ポポルスキーが加入。ロブソン同様のセントラルハーフのポジションでの活躍を希望したが結局、右サイドで起用することとなり、ポポルスキーとのポジション争いには勝ったので36試合に出場した。このシーズンの開幕戦、ウィンブルドン戦で52mの超ロングシュートを決めて強い印象を残した。

97-98シーズン、それまでマンUの顔だった、エリック・カントナから背番号7を受け継ぎ、チームの顔として活躍するようになったが、チームはロイ・キーンの離脱等もあって無冠に終わってしまった。

98-99シーズン、彼の魔法の右足から奇跡が起きた。FA杯、プレミアシップを制して臨んだ、カンプ・ノウにおけるチャンピオンズリーグ決勝、試合はロイ・キーン、ポール・スコールズの出場停止により、セントラルのポジションを務めており終始苦戦をおり、試合も1-0とリードされていた後半ロスタイムに、彼のコーナーキックからテディ・シェリンガム、オレ・グンナー・スールシャールのゴールを演出し、トレブルを達成した。

その後ユナイテッドでの素晴らしい時期を過ごしたが、02-03シーズン、サー・アレックス・ファーガソンと確執が起き、2月にFA杯でアーセナルに破れたことにキレたファギーがベンチで投げたスパイクが顔に当たり流血する事件も発生。亀裂は収まらず、チャンピオンズリーグ準々決勝、第2戦、スタメンとならなかったが、途中出場から泥臭いゴールと素晴らしい速度と角度のあるフリーキックを決めて存在感をアピールした。

結局、プレミアシップを制したがこのシーズン後、2500万ポンドでレアル・マドリードに移籍。アジア進出をもくろむレアルにとって彼ほどの知名度のあるコンテンツはなかった。

レアルは彼の獲得に反対したビセンテ・デル・ボスケを解任、新監督にマンチェスター・ユナイテッド、アシスタント・コーチであるポルトガル人、カルロス・ケイロスを招聘する待遇ぶり。レアルにおける背番号も問題とされたが、背番号7はレアルの顔であるラウル・ゴンサレスに譲り、本人はアメリカ進出のことも考えて、マイケル・ジョーダンの「23」を選択した。

03-04シーズン、当初は右にベッカム、中、ジダン、左にフィーゴというプランを選択したチームで臨んだが、結局失点も多く、中盤の守備の脆さから、彼をセントラルのポジションに据えることで解決された。しかし、余裕をこいて警告を貰ったチャンピオンズリーグ、対ASモナコとのシリーズで敗退。コパ・デル・レイも決勝でレアル・サラゴサ相手に彼は先制点を決めるも敗れ、リーガ・エスパニョーラでは独走するバレンシアを逆転することはできず、無冠に終わった。彼の加入と同時にチェルシーへ移籍したクロード・マケレレと比較されて評価されることとなり、彼は「自分はマケレレになれない」と正直に守備の非は認めている。

04-05シーズン、ボランチで臨んだ前半戦はチームが絶不調。フリーキックや正確無比のフィードは健在だったのではあるが、マケレレのような相手の攻撃の芽を摘む仕事はできなかった。冬にトマス・グラベセンが加入、新監督にヴァンデルレイ・ルシェンブルゴが就任すると、右のサイドで起用されることとなった。しかし、チームはまたしても無冠となった。

05-06シーズン、加入後獲得していないタイトルに向けて彼は奔走している。

代表としては96年9月モルドヴァ戦にてデビュー。

1998年のW杯ではグループリーグ第2戦、ルーマニア戦でケガをしたポール・インスと交代して出場。第3戦のコロンビア戦で素晴らしいフリーキックを決めて一躍名を轟かせた。しかし、決勝トーナメント第1戦、マークについてディエゴ・シメオネに対し報復行為を取ったためにキム・ミルトン・ニールセン主審からレッドカードを貰い、今度は非難が集中することとなり、本国に戻れずアメリカに一時、逃げた。

2000年、主力として臨んだ欧州選手権、引き分け以上で決勝トーナメント進出となるルーマニア戦で敗れてしまう。

2002年、スヴェン・ゴラン・エリクソン監督に主将を任された戦ったW杯予選。最終戦、引き分け以上で1位通過となるギリシャ戦、後半終了間際に素晴らしいフリーキックを決めてチームの本大会出場を決めた。本戦はデポルティーボ・ラ・コルーニャ、アルド・ドゥシェルの両足タックルによる右足中指骨折で出場が危ぶまれたが、ユナイテッドの医療班の尽力もあり出場となった。彼はソフトモヒカンなる髪型で登場。第1戦スウェーデン戦では先制点となるコーナーキックを蹴り、第2戦、因縁のアルゼンチンとの試合では決勝点となるPKを決めた。チームは準々決勝ブラジル戦で敗れたがキャプテンとしてチームを鼓舞しまとめ上げる活躍をした。

2004年、欧州選手権、予選の大一番であるトルコ戦でPKをゴールよりも遙か上に蹴ってしまい、「デビッドはジョニー・ウィルキンソンとCMをしすぎたから」とエリクソンがジョークで流せたのは本戦通過が決まったからであるが、本戦グループリーグ第1戦、先制点をアシストする素晴らしいフリーキックを蹴ったが、後半36分、追加点とすべきだったPKをファビアン・バルテズに止められ、悪夢の大逆転負けを喫した。それでも「またPKを蹴りたい」と言ったことが災いしたのか、準々決勝ポルトガル戦、PK戦の1人目として登場。またもPKを外してしまい、ポルトガルに破れることとなってしまった。

2006年、W杯予選、エリクソンが4-5-1のシステムを試し彼を中盤の底で起用したが、北アイルランドに78年ぶりの敗戦するなど苦杯をなめたが、本戦出場は決まった。あとは本戦ですね。

個人評

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