ジュニーニョ・ペルナンブカーノ

ジュニーニョ・ペルナンブカーノ

Juninho Pernambucano ブラジル人サッカー選手

フルネームはAntônio Augusto Ribeiro Reis Junior

名前が長いのはジュニーニョ・パウリスタ Juninho Paulistaと区別するため(2000-01シーズン同じクラブに所属)、ペルネンブッコ州のジュニーニョの意味。パウリスタはサンパウロ出身の意。

1975年1月30日 ブラジル、レシフェ生まれ 178cm・71kg

愛称としてはフリーキックでゴールが決まる確率が高いため、ムッシュ・デミ(50%の男)という異名をリヨンの公式HPは書いている。

所属クラブ

1993-94 スポルチ・レシフェ(ブラジル)

1995-01 バスコ・ダ・ガマ(ブラジル)

2001-   オランピック・リヨネー(フランス)

概略

元々フットサルの選手として活躍しており、ブラジル人選手としてのキャリアと開始としては遅い1993年、18歳に地元レシフェのスポルチ・レシフェでキャリアを始め、1995年にブラジルの名門バスコ・ダ・ガマに移籍する。1997年にブラジル全国選手権制覇に貢献すると、翌1998年のリベルタ・ドーレス杯、準決勝第2戦リーベルプレート(アルゼンチン)戦で値千金のフリーキックを決め、決勝バルセロナ(エクアドル)戦でも素晴らしい活躍を見せ、見事に優勝に導いた。そして1998年のインターコンチネンタルカップ(トヨタカップ)で来日、レアル・マドリード相手に見事なミドルシュートを決めたが、チームはラウル・ゴンサレスのゴールにより1-2で敗れた。

2001年、バスコとの契約満了によってフランスのオランピック・リヨネーに移籍。ジャック・サンティニ監督の下攻撃的MFとして、エリック・カリエール、シドニー・ゴヴ、ソニー・アンデルソンらと共に攻撃的なチームを構成してリヨンを初のリーグアン制覇に導く。

02-03シーズン、ジャック・サンティニ監督がフランス代表監督に就任したことに伴って、監督がポール・ル・グエン氏が監督に就任。ASモナコ、オランピック・マルセイユなどとの激しい争いの中、最終節に勝利してクラブは、オランピック・マルセイユ以来、10年ぶりのフランスリーグ2連覇を果たした。

03-04シーズン頃からリーグアンや欧州の大舞台での執拗なマークからル・グエン監督はジュニーニョをボランチにコンバートさせ、攻撃の組み立て、幅広い動きが出来るようになり、2年連続2桁得点の10得点を記録。クラブはシーズン終盤の大逆転によりリーグアン3連覇を果たすことになった。またUEFAチャンピオンズリーグの舞台では、激戦区と言われたA組において第3節バイエルン・ミュンヘン戦ではオリヴァー・カーン相手に素晴らしいFKを決め、勝たなければ進出が出来なかった最終節セルティック戦では後半に決勝点となる素晴らしいミドルシュートを決め3-2でA組トップ進出を決める一因となり、決勝トーナメントでもレアル・ソシエダを破ったが、準々決勝のFCポルト戦は体調不良により万全の戦いをできず、チームも破れてしまった。しかしこのシーズンの活躍を認められ2004年、バロンドール候補の50人に選出された。

04-05シーズンではトップ下を務めていたペギー・リュインドラがオランピック・マルセイユに移籍したことから、マイケル・エシエン、マハマドゥ・ディアッラと中盤を組み、前線の選手が流動的に動くことで作ったスペースに攻撃参加する形を構成、圧倒的な強さでリーグアン4連覇を達成した。チャンピオンズリーグでは、対ヴェルダー・ブレーメン戦において30mほどの距離のフリーキックで無回転に曲がる驚愕のフリーキックを決めたが、PSVアイントホーフェンにPK戦の末、敗れてしまい、ドリンクボックスを蹴り飛ばして怒りを顕わにしていた。

05-06シーズン、チャンピオンズリーグ第1節、対レアル・マドリード戦では、フリーキックの場面でインスイングに蹴ったボールにヨン・カリューが合わせゴールをアシストし、33mの位置から時速128㎞で無回転のボールを蹴りゴールを決めた。その後オリンピアコスとの2連戦でそれぞれ違うタイプをシュートを決め4連勝での勝ち抜けを決めた。そしてベスト16において2年連続で迎えたPSV戦で無回転で落ちるフリーキックにブラジル代表GKエウレリョ・ゴメスは体で止めようとしたがそれでも止められずゴールを許した。しかし、この2連戦で2枚の警告を受けて、準々決勝のACミランとの第1戦を欠場、第2戦では1-0から彼のフリーキッキをディアラが合わせてアウェーゴールで勝ち抜けかと思われたが、最後の最後に2失点をして敗戦。悔しい思いをした彼は残留を決意、オラス会長に勝てる戦力の補強を懇願した。リーグでは5連覇を達成、最終節でフリーキックをねじ込みリーグMVPを自らのゴールで飾った。

2006-07シーズン、キャプテンのクラウディオ・カサーパのケガが長引き、キャプテンマークを譲り受けチームを牽引している。


ブラジル代表としては1999年3月28日韓国戦でデビュー、3月31日日本戦にも出場している。2002年W杯では予選に2試合出場したが本戦メンバーには選ばれなかった。ルイス・フェリペ・スコラーリからカルロス・アウベルト・パレイラに監督が替わると、ロナウド、ロナウジーニョ、カカの3人の下で中盤の構成と相手選手へのチェックを委される役を担うことを期待されているためか度々招集されている。またクラブではバスコ・ダ・ガマ、オリンピック・リヨンと背番号は「8」であるが、2002年W杯以降セレソンでは栄光の背番号「10」を委されている存在であった。しかし、W杯南米予選、ウルグアイ戦の出場停止、パラグアイ戦およびアルゼンチン戦をケガで欠場したときに背番号「10」をロナウジーニョに譲り、2005年コンフェデレーションズカップではついに背番号「18」をつけてしまうことになった。しかしながら、対ギリシャ戦において途中出場から、縦回転に落ちる絶品のフリーキックを決め存在感を示した。

2006年、W杯のメンバーにも選出され、練習中にジュリオ・セザール相手にフリーキックを全て決めてしまうという驚愕の映像がネットを中心に広まった、そして満を持して第3戦日本戦にてW杯初出場、前半から何度も素晴らしいシュートを放ち、後半8分、無回転のミドルシュートを叩き込み逆転勝利に導いた。クァルテット・マジコ不調によりガーナ戦に途中出場、二度目の先発出場となったフランス戦ではほぼ全てのセットプレーのキッカーを任されたが枠を外れる、合わせたのに誰も走り込んでいないという場面に合い大きな見せ場を作ることはできなかった。そして大会後は「30歳を過ぎた人間は潔く若手に譲るべきだ」とコメントを残して代表引退を示唆した。そのためドゥンガ体制では呼ばれていない。

セレソンにおいて、ロナウジーニョやカカのような魅せるような個人技はないが、確かな両足のテクニック、ドリブル、パスのセンス、素晴らしいフリーキックの持ち主として欠かせない選手で、他の代表であれば間違いなくもっと多くの試合に出場し、結果を残していたであろう。

個人評

フリーキックという武器、フィジカルの強さ、戦術の理解面から考えてもセレソンで充分にスタメンを張れる、大きな舞台での活躍の少なさは本当に勿体ないが、彼の悲願である欧州制覇は是非とも叶えてあげたいねぇ。

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