アンドリー・シェフチェンコ

アンドリー・シェフチェンコ

Andriy Shevchenko Андрий Шевченко Андрій Шевченко(若干ロシア語とウクライナ語が違うらしい。)

ウクライナ人サッカープレイヤー。

1976年9月29日 キエフ、クレシュチェチュク出身。 183cm・73kg


所属クラブ

1994-99 ディナモ・キエフ(ウクライナ)

1999- ACミラン(イタリア)

個人タイトル

2004年 F.F誌選出 欧州年間最優秀選手(Ballon d'or)

概略

小さい頃は体が弱く、10歳の頃からディナモ・キエフのサッカースクールに通い始め、当時はアイスホッケーのスクールにも通っていた。そのような環境の中、1992年15歳でジュニア組織に加入。続く1993年にはU-17代表に選ばれ、1994年10月28日シャタール・ドネツク戦にてプロデビューを果たす。以来ディナモ・キエフの主力として5シーズン活躍を果たす。世界的に注目を浴びるようになったのは1997-98シーズンのチャンピオンズリーグでFCバルセロナ相手にカンプ・ノウでハットトリックを決めたことであり、バレリー・ロバノフスキー下で卓越したスピードを活かし、且つ素晴らしい決定力を持つFWとして注目を浴びる。

翌1998-99シーズンもレアル・マドリード相手に2試合合計で3得点を奪い、計10得点とチャンピオンズリーグ得点王にも輝く活躍でベスト4までチームを導いた。彼がディナモに在籍した期間、ディナモはウクライナリーグで優勝をし続けた。

1999年、ACミランに2,600万ユーロで移籍をすると移籍初年度から32試合に出場24得点とセリエAに順応し、得点王に輝く偉業を成し遂げた。背番号は7。イブラヒム・バが「シェヴァ」はヘブライ語で7を意味することから背番号を譲った。以来、彼の愛称シェヴァは広まることとなる。

翌00-01シーズンも24得点を記録、得点王こそエルナン・クレスポに譲ったが彼の才能は余すところ無く発揮されたがチームは彼に頼り切った攻撃と中盤および守備崩壊により6位に甘んじる結果になった。

01ー02シーズンは、開幕戦のマヌエル・ルイコスタの故障、ミランに不似合いな3トップの採用と開幕からまたついたシーズンの中、奮闘するも自身はウディネーゼ戦で大事なPKを外すなど14得点に終わる少々不完全燃焼のシーズンになった。

02-03シーズン、開幕前から膝の故障に悩まされたシーズンとなった。セリエAでは結局5得点の結果に終わった。しかし並行して戦ったチャンピオンズリーグでは2次リーグレアル・マドリード戦でルイ・コスタからの縦パス一本にいち早く抜け出して素晴らしいゴールを決めた。決勝トーナメントに入ってもアヤックス戦にもゴールを決め、準決勝インテル・ミラノとのダービーでは第1戦に大チャンスにシュートではなくパスを選択するミスを犯したが、第2戦では前半ロスタイムに倒れ込みながら素晴らしいシュートを決めた。決勝戦においてはPK戦で最終キッカーを務め見事に決めてミランに9シーズンぶりのビッグイヤーをもたらした。彼はこの勝利を2002年に亡くなった恩師ロバノフスキーに捧げた。

03-04シーズン、完全に復調した彼はセリエAの舞台で24得点を稼ぎ出し得点王を獲得。ミランの5シーズンぶりのスクデットに大きく貢献。フィリッポ・インザーギやヨン・ダール・トマソンとの2トップだけでなく、トップ下にカカ、ルイ・コスタが控える1トップでも充分に順応する適応性をも示した。この成績を認められ、彼はバロンドールを得た。

04-05シーズン、冬の期間に故障したこともあって29試合に出場、17得点の記録となった。並行して戦ったチャンピオンズリーグでは決勝トーナメント準々決勝、インテル・ミラノとのダービーにおいて第1戦、第2戦ともにゴールを決める活躍を見せ、チームを決勝に導いたが、PK戦の最終キッカーとして蹴ったボールはリヴァプールFCゴールキーパー、イェルジィ・デュデクに止められ二度目のビッグイヤーとならなかった。

代表としては 1995年3月25日クロアチア戦にてデビュー。オレグ・ブロヒン、イゴール・ベラノフに次ぐ「ウクライナの矢」として期待されたが、国際舞台では1998年W杯予選ではクロアチアに、2000年欧州選手権予選ではスロベニアに、2002年W杯予選ではドイツにプレーオフで破れ、2004年欧州選手権予選ではギリシャ、スペインに離された3位の結果に終わり代表として国際舞台として縁がなかったが、ついに2006年W杯欧州予選において彼に依存しなくなった攻撃陣の機能もあってW杯本戦出場を決めた。

個人評

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